名作案内第4回 夏目漱石「文鳥(3)」 

 後半ですが、好き嫌いがわかれるかもしれません。
漱石の行動を冷たいと読むのか、漱石の悲しみの裏返しと読むのか・・・
学校の授業ではありませんから、各自が思うように読んで下さい。

 或日の事、書斎で例のごとくペンの音を立ててびしい事を書きつらねていると、ふと妙な音が耳に這入はいった。縁側でさらさら、さらさら云う。女が長いきぬすそさばいているようにも受取られるが、ただの女のそれとしては、あまりに仰山ぎょうさんである。雛段ひなだんをあるく、内裏雛だいりびなはかまひだれる音とでも形容したらよかろうと思った。自分は書きかけた小説をよそにして、ペンを持ったまま縁側へ出て見た。すると文鳥が行水ぎょうずいを使っていた。
水はちょうどてであった。文鳥は軽い足を水入の真中に胸毛むなげまでひたして、時々は白いつばさを左右にひろげながら、心持水入の中にしゃがむように腹をしつけつつ、総身そうみの毛を一度にっている。そうして水入のふちにひょいと飛び上る。しばらくしてまた飛び込む。水入の直径は一寸五分ぐらいに過ぎない。飛び込んだ時は尾も余り、頭も余り、背は無論余る。水にかるのは足と胸だけである。それでも文鳥は欣然きんぜんとして行水ぎょうずいを使っている
自分は急に易籠かえかごを取って来た。そうして文鳥をこの方へ移した。それから如露じょろを持って風呂場へ行って、水道の水をんで、籠の上からさあさあとかけてやった。如露じょろの水が尽きる頃には白い羽根から落ちる水がたまになってころがった。文鳥は絶えず眼をぱちぱちさせていた。
昔紫の帯上おびあげでいたずらをした女が、座敷で仕事をしていた時、裏二階から懐中鏡ふところかがみで女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだ事がある。女は薄紅うすあかくなった頬を上げて、ほそい手を額の前にかざしながら、不思議そうにまばたきをした。この女とこの文鳥とはおそらく同じ心持だろう
日数ひかずが立つにしたがって文鳥はさえずる。しかしよく忘れられる。或る時は餌壺えつぼあわからだけになっていた事がある。ある時はかごの底がふんでいっぱいになっていた事がある。ある晩宴会があって遅く帰ったら、冬の月が硝子越ガラスごしに差し込んで、広い縁側えんがわがほの明るく見えるなかに、鳥籠がしんとして、箱の上に乗っていた。そのすみに文鳥の体が薄白く浮いたままとまの上に、有るか無きかに思われた。自分は外套がいとう羽根はねを返して、すぐ鳥籠を箱のなかへ入れてやった。
翌日文鳥は例のごとく元気よくさえずっていた。それからは時々寒いよるも箱にしまってやるのを忘れることがあった。ある晩いつもの通り書斎で専念にペンの音を聞いていると、突然縁側の方でがたりと物のくつがえった音がした。しかし自分は立たなかった。依然として急ぐ小説を書いていた。わざわざ立って行って、何でもないといまいましいから、気にかからないではなかったが、やはりちょっと聞耳ききみみを立てたまま知らぬ顔ですましていた。その晩寝たのは十二時過ぎであった。便所に行ったついで、気がかりだから、念のため一応縁側へ廻って見ると――
籠は箱の上から落ちている。そうして横に倒れている。水入みずいれ餌壺えつぼ引繰返ひっくりかえっている。あわは一面に縁側に散らばっている。留り木は抜け出している。文鳥はしのびやかに鳥籠のさんにかじりついていた。自分は明日あしたから誓ってこの縁側に猫を入れまいと決心した。
翌日あくるひ文鳥は鳴かなかった。粟を山盛やまもり入れてやった。水をみなぎるほど入れてやった。文鳥は一本足のまま長らく留り木の上を動かなかった。午飯ひるめしを食ってから、三重吉に手紙を書こうと思って、二三行書き出すと、文鳥がちちと鳴いた。自分は手紙の筆を留めた。文鳥がまたちちと鳴いた。出て見たら粟も水もだいぶん減っている。手紙はそれぎりにして裂いて捨てた。
翌日よくじつ文鳥がまた鳴かなくなった。留り木を下りて籠の底へ腹をしつけていた。胸の所が少しふくらんで、小さい毛がさざなみのように乱れて見えた。自分はこの朝、三重吉から例の件で某所まで来てくれと云う手紙を受取った。十時までにと云う依頼であるから、文鳥をそのままにしておいて出た。三重吉にって見ると例の件がいろいろ長くなって、いっしょに午飯を食う。いっしょに晩飯ばんめしを食う。その上明日あすの会合まで約束してうちへ帰った。帰ったのは夜の九時頃である。文鳥の事はすっかり忘れていた。疲れたから、すぐ床へ這入はいって寝てしまった。
翌日あくるひ眼がめるや否や、すぐ例の件を思いだした。いくら当人が承知だって、そんな所へ嫁にやるのは行末ゆくすえよくあるまい、まだ子供だからどこへでも行けと云われる所へ行く気になるんだろう。いったん行けばむやみに出られるものじゃない。世の中には満足しながら不幸におちいって行く者がたくさんある。などと考えて楊枝ようじを使って、朝飯を済ましてまた例の件を片づけに出掛けて行った。
帰ったのは午後三時頃である。玄関へ外套がいとうけて廊下伝いに書斎へ這入はいるつもりで例の縁側へ出て見ると、鳥籠が箱の上に出してあった。けれども文鳥は籠の底にかえっていた。二本の足を硬くそろえて、胴と直線に伸ばしていた。自分は籠のわきに立って、じっと文鳥を見守った。黒い眼をねぶっている。まぶたの色は薄蒼うすあおく変った。
餌壺えつぼにはあわからばかりたまっている。ついばむべきは一粒もない。水入は底の光るほどれている。西へ廻った日が硝子戸ガラスどを洩れて斜めに籠に落ちかかる。台に塗ったうるしは、三重吉の云ったごとく、いつの間にか黒味がけて、しゅの色が出て来た。
自分は冬の日に色づいた朱の台を眺めたからになった餌壺を眺めたむなしく橋を渡している二本の留り木を眺めた。そうしてその下によこたわる硬い文鳥を眺めた
自分はこごんで両手に鳥籠をかかえた。そうして、書斎へ持って這入はいった。十畳の真中へ鳥籠をおろして、その前へかしこまって、籠の戸を開いて、大きな手を入れて、文鳥を握って見た。やわらかい羽根はひえきっている。
こぶしを籠から引き出して、握った手を開けると、文鳥は静にてのひらの上にある。自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見つめていた。それから、そっと座布団ざぶとんの上に卸した。そうして、はげしく手を鳴らした。
十六になる小女こおんなが、はいと云って敷居際しきいぎわに手をつかえる。自分はいきなり布団の上にある文鳥を握って、小女の前へほうり出した。小女は俯向うつむいて畳を眺めたまま黙っている。自分は、をやらないから、とうとう死んでしまったと云いながら、下女の顔をにらめつけた。下女はそれでも黙っている。
自分は机の方へ向き直った。そうして三重吉へ端書はがきをかいた。「家人うちのものが餌をやらないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌をやる義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」と云う文句であった。
自分は、これを投函して来い、そうしてその鳥をそっちへ持って行けと下女に云った。下女は、どこへ持って参りますかと聞き返した。どこへでも勝手に持って行けと怒鳴どなりつけたら、驚いて台所の方へ持って行った。
しばらくすると裏庭で、子供が文鳥をうめるんだ埋るんだと騒いでいる。庭掃除にわそうじに頼んだ植木屋が、御嬢さん、ここいらが好いでしょうと云っている。自分は進まぬながら、書斎でペンを動かしていた。
翌日よくじつは何だか頭が重いので、十時頃になってようやく起きた。顔を洗いながら裏庭を見ると、昨日きのう植木屋の声のしたあたりに、さい公札こうさつが、あお木賊とくさの一株と並んで立っている。高さは木賊よりもずっと低い。庭下駄にわげた穿いて、日影のしもくだいて、近づいて見ると、公札の表には、この土手登るべからずとあった。筆子ふでこの手蹟である。
午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想かわいそうな事を致しましたとあるばかりで家人うちのものが悪いとも残酷だともいっこう書いてなかった。(終)
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時習館ゼミナール/高等部
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