名作案内第3回 夏目漱石「文鳥(2)」 

 中盤は文鳥の描写が秀逸です。
 漱石の観察力から文鳥への愛情が強く感じられますね。

 その頃は日課として小説を書いている時分であった。飯と飯の間はたいてい机に向って筆を握っていた。静かな時は自分で紙の上を走るペンの音を聞く事ができた。伽藍がらんのような書斎へは誰も這入はいって来ない習慣であった。筆の音にさびしさと云う意味を感じた朝も昼も晩もあった。しかし時々はこの筆の音がぴたりとやむ、またやめねばならぬ、折もだいぶあった。その時は指のまたに筆をはさんだまま手のひらあごを載せて硝子越ガラスごしに吹き荒れた庭を眺めるのがくせであった。それが済むと載せた顎を一応つまんで見る。それでも筆と紙がいっしょにならない時は、撮んだ顎を二本の指でして見る。すると縁側えんがわで文鳥がたちまち千代ちよ千代と二声鳴いた。
筆をいて、そっと出て見ると、文鳥は自分の方を向いたまま、とまの上から、のめりそうに白い胸を突き出して、高く千代と云った。三重吉が聞いたらさぞ喜ぶだろうと思うほどない声で千代と云った。三重吉は今にれると千代と鳴きますよ、きっと鳴きますよ、と受合って帰って行った。
自分はまた籠のそばへしゃがんだ。文鳥はふくらんだ首を二三度竪横たてよこに向け直した。やがて一団ひとかたまりの白い体がぽいと留り木の上を抜け出した。と思うと奇麗きれいな足の爪が半分ほど餌壺えつぼふちからうしろへ出た。小指を掛けてもすぐかえりそうな餌壺は釣鐘つりがねのように静かである。さすがに文鳥は軽いものだ。何だか淡雪あわゆきせいのような気がした。
文鳥はつとくちばしを餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗にならして入れてあった粟がはらはらと籠の底にこぼれた。文鳥はくちばしを上げた。咽喉のどの所でかすかな音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くてこまやかで、しかも非常にすみやかである。すみれほどな小さい人が、黄金こがねつち瑪瑙めのう碁石ごいしでもつづけ様にたたいているような気がする
くちばしの色を見るとむらさきを薄くぜたべにのようである。その紅がしだいに流れて、あわをつつく口尖くちさきあたりは白い。象牙ぞうげを半透明にした白さである。この嘴が粟の中へ這入はいる時は非常に早い。左右に振りく粟のたまも非常に軽そうだ。文鳥は身をさかさまにしないばかりにとがった嘴を黄色い粒の中に刺し込んでは、くらんだ首を惜気おしげもなく右左へ振る。籠の底に飛び散る粟の数は幾粒だか分らない。それでも餌壺えつぼだけは寂然せきぜんとして静かである。重いものである。餌壺の直径は一寸五分ほどだと思う。
自分はそっと書斎へ帰ってさびしくペンを紙の上に走らしていた。縁側えんがわでは文鳥がちちと鳴く。折々は千代千代とも鳴く。外では木枯こがらしが吹いていた
夕方には文鳥が水を飲むところを見た。細い足を壺のふちけて、ちさい嘴に受けた一雫ひとしずくを大事そうに、仰向あおむいてくだしている。この分では一杯の水が十日ぐらい続くだろうと思ってまた書斎へ帰った。晩には箱へしまってやった。寝る時硝子戸ガラスどから外をのぞいたら、月が出て、しもが降っていた。文鳥は箱の中でことりともしなかった。
あくもまた気の毒な事に遅く起きて、箱から籠を出してやったのは、やっぱり八時過ぎであった。箱の中ではとうから目がめていたんだろう。それでも文鳥はいっこう不平らしい顔もしなかった。籠が明るい所へ出るや否や、いきなり眼をしばたたいて、心持首をすくめて、自分の顔を見た。
むかし美しい女を知っていた。この女が机にもたれて何か考えているところを、うしろから、そっと行って、紫の帯上おびあげのふさになった先を、長く垂らして、頸筋くびすじの細いあたりを、上からまわしたら、女はものうに後を向いた。その時女のまゆは心持八の字に寄っていた。それで眼尻と口元には笑がきざしていた。同時に恰好かっこうの好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上でいたずらをしたのは縁談のきまった二三日あとである。
餌壺にはまだ粟が八分通り這入っている。しかしからもだいぶ混っていた。水入には粟の殻が一面に浮いて、いたく濁っていた。えてやらなければならない。また大きな手を籠の中へ入れた。非常に要心して入れたにもかかわらず、文鳥は白いつばさを乱して騒いだ。小い羽根が一本抜けても、自分は文鳥にすまないと思った。殻は奇麗に吹いた。吹かれた殻は木枯がどこかへ持って行った。水も易えてやった。水道の水だから大変冷たい。
その日は一日淋しいペンの音を聞いて暮した。その間には折々千代千代と云う声も聞えた。文鳥も淋しいから鳴くのではなかろうかと考えた。しかし縁側えんがわへ出て見ると、二本のとまの間を、あちらへ飛んだり、こちらへ飛んだり、絶間たえまなく行きつ戻りつしている。少しも不平らしい様子はなかった。
夜は箱へ入れた。あくあさ目がめると、外は白いしもだ。文鳥も眼が覚めているだろうが、なかなか起きる気にならない。枕元にある新聞を手に取るさえ難儀なんぎだ。それでも煙草たばこは一本ふかした。この一本をふかしてしまったら、起きて籠から出してやろうと思いながら、口から出るけぶり行方ゆくえを見つめていた。するとこの煙の中に、首をすくめた、眼を細くした、しかも心持まゆを寄せた昔の女の顔がちょっと見えた。自分は床の上に起き直った。寝巻の上へ羽織はおり引掛ひっかけて、すぐ縁側へ出た。そうして箱のふたをはずして、文鳥を出した。文鳥は箱から出ながら千代千代と二声鳴いた。
三重吉の説によると、れるにしたがって、文鳥が人の顔を見て鳴くようになるんだそうだ。現に三重吉の飼っていた文鳥は、三重吉がそばにいさえすれば、しきりに千代千代と鳴きつづけたそうだ。のみならず三重吉の指の先からを食べると云う。自分もいつか指の先で餌をやって見たいと思った。
次の朝はまたなまけた。昔の女の顔もつい思い出さなかった。顔を洗って、食事を済まして、始めて、気がついたように縁側えんがわへ出て見ると、いつの間にか籠が箱の上に乗っている。文鳥はもうとまの上を面白そうにあちら、こちらと飛び移っている。そうして時々は首をして籠の外を下の方からのぞいている。その様子がなかなか無邪気である。昔紫の帯上おびあげでいたずらをした女はえりの長い、背のすらりとした、ちょっと首を曲げて人を見るくせがあった。
あわはまだある。水もまだある。文鳥は満足している。自分は粟も水もえずに書斎へ引込ひっこんだ。
昼過ぎまた縁側へ出た。食後の運動かたがた、五六間の廻り縁を、あるきながら書見するつもりであった。ところが出て見ると粟がもう七分がた尽きている。水も全く濁ってしまった。書物を縁側へほうり出しておいて、急いでと水を易えてやった。
次の日もまた遅く起きた。しかも顔を洗って飯を食うまでは縁側を覗かなかった。書斎に帰ってから、あるいは昨日きのうのように、家人うちのものが籠を出しておきはせぬかと、ちょっと縁へ顔だけ出して見たら、はたして出してあった。その上餌も水も新しくなっていた。自分はやっと安心して首を書斎に入れた。途端とたんに文鳥は千代千代と鳴いた。それで引込ひっこめた首をまた出して見た。けれども文鳥は再び鳴かなかった。けげんな顔をして硝子越ガラスごしに庭のしもを眺めていた。自分はとうとう机の前に帰った。
書斎の中では相変らずペンの音がさらさらする。書きかけた小説はだいぶんはかどった。指の先が冷たい。今朝けた佐倉炭さくらずみは白くなって、薩摩五徳さつまごとくけた鉄瓶てつびんがほとんどめている。炭取はからだ。手をたたいたがちょっと台所まできこえない。立って戸を明けると、文鳥は例に似ずとまの上にじっと留っている。よく見ると足が一本しかない。自分は炭取を縁に置いて、上からこごんで籠の中を覗き込んだ。いくら見ても足は一本しかない。文鳥はこの華奢きゃしゃな一本の細い足に総身そうみを託して黙然もくねんとして、籠の中に片づいている。
自分は不思議に思った。文鳥について万事を説明した三重吉もこの事だけは抜いたと見える。自分が炭取に炭を入れて帰った時、文鳥の足はまだ一本であった。しばらく寒い縁側に立って眺めていたが、文鳥は動く気色けしきもない。音を立てないで見つめていると、文鳥は丸い眼をしだいに細くし出した。おおかたねむたいのだろうと思って、そっと書斎へ這入ろうとして、一歩足を動かすや否や、文鳥はまた眼をいた。同時に真白な胸の中から細い足を一本出した。自分は戸をてて火鉢ひばちへ炭をついだ。
小説はしだいにいそがしくなる。朝は依然として寝坊をする。一度うちのものが文鳥の世話をしてくれてから、何だか自分の責任が軽くなったような心持がする。家のものが忘れる時は、自分がをやる水をやる。かごの出し入れをする。しない時は、家のものを呼んでさせる事もある。自分はただ文鳥の声を聞くだけが役目のようになった。
それでも縁側えんがわへ出る時は、必ず籠の前へ立留たちどまって文鳥の様子を見た。たいていは狭い籠をにもしないで、二本の留り木を満足そうに往復していた。天気の好い時は薄い日を硝子越ガラスごしに浴びて、しきりに鳴き立てていた。しかし三重吉の云ったように、自分の顔を見てことさらに鳴く気色はさらになかった。
自分の指からじかにを食うなどと云う事は無論なかった。折々機嫌きげんのいい時は麺麭パンなどを人指指ひとさしゆびの先へつけて竹の間からちょっと出して見る事があるが文鳥はけっして近づかない。少し無遠慮に突き込んで見ると、文鳥は指の太いのに驚いて白いつばさを乱して籠の中を騒ぎ廻るのみであった。二三度試みたのち、自分は気の毒になって、この芸だけは永久に断念してしまった。今の世にこんな事のできるものがいるかどうだかはなはだ疑わしい。おそらく古代の聖徒せいんとの仕事だろう。三重吉はうそいたに違ない。(続く)

moriyama について

時習館ゼミナール/高等部
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