第9講 自然観による文化の相違

 このような西洋近代的自然観と日本伝統的自然観を別の「時間」という視点で見ることもできます。
 西洋近代的自然観では人間は自然と対峙し、自然を征服したうえで、自然を支配・管理してきました。すなわち、西洋では「自然を征服した瞬間」が「完成形」であり、その「完成形」を「支配・管理」することにより「保持・維持」していく必要があるのです。
 西洋庭園で言えば、庭園が作成された段階が「完成」であり、その後は人工的な手入れをすることにより、その完成形を維持していくことになります。また、西洋の絵画や彫刻や音楽など、西洋の芸術は全般的にそのような「完成形」として永遠不変の作品を作り上げる傾向にあります。
 ところが、日本の場合は庭園にしろ芸術にしろ、全てが変化を求め、そして永遠不変の作品としてではなく、その瞬間、その一瞬を作品とする傾向にあります。例えば日本庭園の場合は、たとえ庭園が作成されたとしても、それが「完成形」とはなりません。そもそも人為的な部分や作為的な部分を嫌う日本庭園において人間から見た「完成形」などは存在しないのです。現在の庭園に対して自然がどのように働きかけてくるのか、そしてその自然からの働きかけを人為的な部分や作為的な部分を見せずに、どのように自然と調和を図っていくのか、私たちはその瞬間を日本庭園に見いだしていくのです。
 また日本特有の芸術である「華道」は生きた花を使う以上、永遠不変の作品を求めることはできませんし、また「茶道」は「一期一会」という語が示すように、その一回の出会いを最高の喜びと考え、その瞬間のもてなしに尽くすもので、茶会が終わった後には何も残らないものです。あるいは、連歌なども、そのような芸術の典型で、上の句と下の句とを数人から十数人で交互に詠み連ねる和歌の形態ですが、そこで求められるのは、前の上の句と後の下の句のつながり、あるいは前の下の句と後の上の句のつながりという、相手の残した句に対していかに自分が句を付けるかというその一瞬の部分であって、連歌全体の価値というものは何もないのです。
 このように、そもそもの自然観の違いが、いろいろな方向性となって私たちの文化の上に別の相違となって表れることに私たちは気付かねばなりません。

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時習館ゼミナール/高等部
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