では、デカルトの「物心二元論」の場合はというと、もちろん、「心」が「中心」で、「物」が「周縁」になります。そしてさらにそこから、「機械論的自然観」や「人間中心主義」という考えが生み出されるようにあるのです。
まず「機械論的自然観」ですが、前にも述べように、中世までは自然の中にある種の目的や意志が宿っていると考えられていましたが、それが近代になると自然は定められた法則どおりに動くだけの、いわば巨大な機械なようなものと捉えられるようになりました。そしてさらに、自然はすべて微小な要素(原子や分子)などから構成され、それが定められた法則どおりに動くだけなので、逆にいえば、私たちは自然を一つひとつの要素にバラバラに分解することができ、それらの要素を理解してから全体に戻せば、全体を理解することができるという「要素還元主義」もここから生まれたのです。
そして、「中心」に位置する心や精神を持つ私たち人間は、このような心や精神を持たない「周縁」の自然に対し、一つひとつの要素に還元しながら科学的な理解を進め、私たち人間に必要なものを積極的に利用し、自然を征服していくことが、人間の知性の勝利として称えられるようになりました。こうして、人間が自然を一方的に支配し、思うように加工したり搾取したりする「人間中心主義」という発想が生まれるのです。
さてこのような「物心二元論」や「機械論的自然観」「人間中心主義」が「現代」にもたらした大きな問題点とはどのようなものだったのでしょうか。
「物心二元論」では「物」と「心」は別々の異なるものとして分断されていましたが、例えば私たちの「心」と「身体=物」の関係はどうでしょうか。例えばある映画を見て感動して、ふと涙を流している自分に気付いた。その時、涙と感動した心の間は分断しているのでしょうか。さらに言えば、「物心二元論」では「心」は「物」に対し優位性を持つものと考えられますが、この場合は「感動した」(だから)「涙を流す」というのではなく、「涙を流す」(だから)「感動したと気付く」というように、「心」よりも「身体=物」のほうが優位に来ているのではないでしょうか。このような観点は後で「身体論」として学ぶことにしましょう。
あるいは「物心二元論」がでは「物」は単なる「物」でしかなく、それを「美しい」「使いやすい」「嫌い」「大きい」などと意味付けるのは「心」であるとしました。その結果「物心二元論」によれば、自然は何の個性もない粒子がただ何らかの法則に従って運動しているだけになってしまいます。そして私たち人間も、水とタンパク質、あるいは分子や原子という粒子から成り立つことを考えれば、私たち自身の個性を否定してしまうことになります。このように「物」と「心」は別々のものとして分断することにより、私たちの暮らしの豊かさを奪い取ってしまった点も「物心二元論」が「現代」にもたらした大きな問題点と言えるでしょう。
一方、「機械論的自然観」「人間中心主義」が「現代」にもたらした大きな問題点と言えばもちろん環境問題です。自然を人間が一方的に利用できる物として捉えることで、自然は破壊され、その自然破壊が今や私たちを脅かそうとしています。また自然はしばしば要素に還元してしまうことができない性質のものであり、自然全体は個々の要素の和とならない例も数多くあります。私たち人間が今まで多くの絶滅種を作り出し、たくさんの環境破壊を引き起こしてきたのは、このような自然をただの物として扱い、一方的な態度で支配してきたことが原因と言えます。
デカルトに端を発する哲学的な近代的世界観を「現代」に生きる私たちがもう一度見つめ直す必要は十分にありますね。