第12講 「感覚」「知覚」「認識」

 「感覚」「知覚」「認識」・・・どこが違うのでしょうか?
 大ざっぱに説明するならば、外界からの物理的刺激を感覚器官で受け取ったもの、それ自体は「感覚」です。その感覚を元にした意識的体験が「知覚」となります。そして、その知覚を言葉(記号)によって判断し、共通理解を行うことが「認識」なのです。
 例えば音を例にとってみましょう。ご存知のように音というのはただの空気振動です。この空気振動が私たちの耳に入り脳に伝わることによってはじめて私たちはそれを音と感じるようになります。しかし、私たちは日常生活でさまざまな音を耳にしながらも、たいていの音(必要ではない音=雑音)は、それを特に意識することもなく聞き流しています。このような空気振動という物理的刺激を耳・脳で受け取っているだけの状態が「感覚」です。
 ところが、その中で、必要な音、気になる音、重要な音などが聞こえると、私たちは意識上に載せ、それまでのただ「聞こえる」という状態から「聞く」という意識的な状態へ移行します。この段階ような意識的な体験の段階を「知覚」が知覚です。
 そして、私たちはそこで聞いた音を「これは○○の音である」とか「この音(声)はこういう意味である」などと判断し、理解します。この時私たちは「言葉=記号」を用いて判断・理解をします。もし、その音が示す対象や状態に「言葉=記号」はなければ、私たちはそれを相手に知らせ共通理解することもできないですし、そもそもその音が示す対象や状態が、もし言語化・記号化されていなかったら、私たちはそれを意識的体験として「知覚」することもないでしょう。
 他の例で言うならば、私たちが道を歩いているとき、美しい花が咲いていれば、私たちはそれを目にし(「感覚」)、それを見て(「知覚」)、「美しい花だ」と理解します(「認識」)。そしてそのような美しい花の名前を、私たちは数多く知っています。ところが、私たちは雑草の名前はほとんど知りません。なぜ私たちが雑草の名前を多く知らないのか? それは知る必要がないからです。つまり、それを意識的体験で「知覚」し、なにかしらの判断や理解をして「認識」する必要がないからです。実際、名前も知らない雑草は、道を歩いているとき、道端に生えていて、私たちがそれを目にする(「感覚」)ことはあっても、それを意識的体験として見る(「知覚」)ことはないですよね。
 このように、「言語化・記号化されること」と、「知覚する」「認識する」ことは大いに関係があるのです。
 さて、このように考えると、実は身の周りにありながら、そしてそれを感覚的に感じながらも、それを概念化する「言語」=「記号」がなければ、それを知覚できず認識できないということが理解できると思います。たとえば「自然」や「風景」がそれです。
 実は、中世の日本語には「自然」という語はありました。しかし、それは[シゼン]と音読すれば「もしも」という仮定法的な心の動きを示し、また[ジネン]と音読すれば「あるがまま」という自然推移的な状態を示すもので、西洋近代的な「人間に対する自然」「客観的対象物としての自然」という意味は、明治以降に「nature」という英語として輸入され、もともと日本にはなかったのす。そしてそのような「客観的対象物としての自然」という意味での「自然」という語がなかったいうことは、その当時の日本人は「客観的対象物としての自然」を知覚・認識していなかったということになります。もちろん、花や木々、山や川、森や林などの個々の事物は存在していましたし、それを知覚・認識することは当然ながらあったでしょう。しかし、それらの総体である「人間に対する自然」「客観的対象物としての自然」というものは、そのような概念のなかった近代以前の日本には存在しなかったことになります。
 このように、「言語」=「記号」があって初めて、ヒトは身の周りにある事物を「知覚」し「認識」できるということは非常に重要です。

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時習館ゼミナール/高等部
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