第8講 東洋伝統的自然観と西洋近代的自然観

 では、これに対して東洋、特に日本の自然観はどのようなものだったのでしょうか。
日本における自然観は、基本的は人間を自然と対峙させず、人間も自然の一部としてとらえる思想です。自然がそのまま真理であり、人間が自然の懐に抱かれ、その中で憩うことに人間の望みうる最高の喜びがあるする考え方なのです。
また日本語の中では「彼は自然と彼女を遠ざけるようになっていった」というように、「無作為=人為的ではない」という意味で自然という語を用いることがあります。この場合の「自然」という語は〈「自然」vs「人間」〉という二元論としてではなく、「自然」を「作為のない精神性」としてとらえています。
このように東洋(日本)において、自然は人間と対峙する二元論的なものではなく、人間や世界を包み込む全体的存在であり、さらにそのようなすべてを分け隔てなく(作為なく)包括する精神性であると考えてきたのです。
ただし、近代以降、日本にも西洋合理主義が流入し近代化されることによって、徐々にこのような日本伝統的自然観が、西洋近代的自然観にとって代わられる場面が増えてきています。しかし、それでもなお、西洋と日本の文化にはそれぞれの自然観が色濃く反映しており、人々の意識を構成する重要な要素になっています。
たとえば、西洋近代的自然観と日本伝統的自然観をもっとも顕著に示しているのは、家屋と庭園です。
西洋の場合、まず家屋は、しっかりとしたレンガ壁や石壁によって家の内(ウチ)と家の外(ソト)が分けられており、ウチとソトを唯一つないでいるのは壁に小さく切り取られた窓だけです。これはウチなる人間とソトなる自然の対峙をもっとも的確に示している例と言えるでしょう。また、西洋庭園においては、芝を植えた後に人工的にきれいに刈り込み、また樹木や生け垣は人工的な形に刈り取られ、配置自体も幾何学的な配置をなしています。西洋の庭園は、自然の花や草や樹木を人間の力で抑え込み、人工的な美しさを追求しているといえます。
これに対し伝統的な日本家屋には、基本的に壁というものがありません。日本家屋では家のウチとソトを区別するのは障子や蔀や簾で。これらは家のソトに向かって大きく広がっており、また簡単に開けることができます。また、縁側(濡れ縁)や軒下というのも日本家屋独特のもので、これは家のウチを家のソトに延長していくものです。縁側や軒下、あるいは開け放れた障子から差し込む光によって、家のソトは徐々に無段階に家のウチに入りこみ、融合していきます。これこそ、人間が自然の一部であり、人間が自然の懐に抱かれものであるという思想を示したものと言えるでしょう。
また日本庭園は、西洋庭園と異なり「人為・作為」が表れることをことさらに嫌います。徒然草の「荒れたる庭の露しげきに…忍びたるけはひ、いとものあはれなり」という文や「大きなる柑子の木の…まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて」という文には、「人為・作為」を嫌い、自然に見える様子を重要視する態度がうかがえます。日本庭園では、人為的な部分や作為的な部分を見せずに、自然との調和を図ることが重要なのです
西洋庭園が幾何学的な人為的な配置でデザインされるのに対し、 日本庭園では、平面的位置関係でも、立面的位置関係でも、不等辺三角形になるように形づくります。これは、華道・生け花の構成理論で使われる「真・副・体」「天・地・人」などの考え方と同じで、各々を差をつけて主従関係を持たせるように配置する事により、大きいものは、より大きく、小さいものは、より小さく見せるというように、 それぞれの個性を強調したり、変化をつける手法で、これに加え手前に背の低いもの、奥に背の高いものを配置する事により、遠近感や奥行感をつくり出し、より三次元的な空間を作り出しています。
さらに日本庭園には「枯山水」と呼ばれる形式も存在します。枯山水は一般的に、水を使用することなく流れや大海を表現した、超自然的で抽象的な庭園を示し、日本人が自然に求める精神性を示すものと考えられます。

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時習館ゼミナール/高等部
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