第7講 西洋自然観の変遷

 西洋の歴史を思想的な面でかなりおおまかに分けると、「古代ギリシャ時代」「中世キリスト教的時代」「近代合理主義時代」そして「現代」となります。今回のテーマでは、この流れの中で、「自然」に対する考えがどのように変化してきたのか、あるいは、西洋と東洋で「自然」に対する考えがどのように異なるのか、さらにそこからどのような文化的な相違が生じるのかを見ていきましょう。
 まず西洋における古代ギリシャ時代における自然観ですが、古代ギリシャ時代の代表的哲学者のアリストテレスは、あらゆる自然的事物は、「物そのものの素材」(質量・ヒュレー)の内部には「それがどのようなものを決める性質」(形相・エイドス)があって、「物そのものの素材」は「それがどのようなものを決める性質」が正しく立ち現れるように、その目的に向かって絶えず運動し発展していると考え、この「目的に向かって絶えず運動し発展している」ものを自然としました。そして人間自身もこのような運動し発展し続ける自然の中の存在にすぎません。
このような考え方を目的論的自然観と呼びます。このような自然観では、自然(ピュシス)は、人間の主観を離れて独立に存在し、変化する世界の根底をなし、永遠に真なる絶対的存在となります。つまり、自然は人間を離れて独立して存在するものであり、それ自体が常に目的に向かって生成・発展・運動していく生命あるもの(有機的自然)なのです。ただし、自然は人間と離れて自立して存在するといっても、近代的二元論のように対立関係にあるものではなく、むしろ人間はその内部に包み込まれるという考え方です。
 ところが西洋の中世キリスト教的自然観はこれとは全く異なります。そもそもキリスト教は人間も自然も世界も全てを越えた神を信仰する一神教です。聖書においては、自然も人間も創造主である神によって造られたものですが、神は人間が自然を支配して統治するものであるとして、神に似た形として人間を造ったとしています。つまり中世キリスト教的自然観では、絶対的な存在として神がいて、その下に人間がいて、さらにその下に自然があるという階層的な構造があり、自然は人間の利用のために創られているという観念があったのです。もちろんここには、近代二元論的な「人間対自然」という考えはなく、神のもとでは人間も自然も被創造物であったわけですが、「人間は自然を利用するものである」という考え方が、「近代合理主義自然観」につながるものであると言えそうです。
 さて、キリスト教・神への信仰に依存し、真理を獲得するという中世の考え方を脱却し、人間が自ら持つ意識・理性によって、主体的に真理を獲得するというデカルトの「合理主義」が近代の出発点となったのは以前にも述べたとおりです。そして、自然を人間と対立するものとして(物心二元論)、自然を客観的に分析し、その内にある原理や法則を発見することによって、自然を支配し利用するために自然科学が発達していきました。そこでは、自然が生命を欠いた、ただ機械的な法則によって動くだけのもの(機械論的自然観)とみなされました。このような西洋近代における自然観は、科学や技術の産業化を産み、人間はその力で自然を利用し、そこから多くの物を搾取してきたのです。このように、西洋近代的自然観は「機械論的自然観」であると同時に、「自然と対峙し、自然を支配・管理する自然観」でもあるのです。

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