なぜ数学を学習するのか
人間は進んで苦しい体験をしようとはしない。
子供に「好きなものを好きなだけ食べろ」と言えばジュースやハンバーグばかりをえんえんと食べ続けて結局は健康な成長ができないのと同様に、学生さんに「自主的に勉強せよ」と言えば、歯ごたえの無い概説・評論的なことばかり選んでしまい、結局は知的に脆弱なまま卒業してしまう人が多いようだ。
別に「今の高校生は子供だ」というわけではなく、人間とはそういうもの。よほど確固とした動機がなければ、苦しい道を進んで選ぶのは大変なことだ。
高校での勉強は無駄なのかというと、事実、高校で学ぶほとんどが実際の生活の中ではほとんど役に立たない。
これは多くの人が断言するところであり、実際自分自身もそう感じている。ならば高校や中学・大学での勉強は全くの無駄なのかというと、そうでもない。
どんな高校や、大学でもやはり学習に勤しんできた人は、そうでない人に比べて、ものごとの捉え方に余裕があって柔軟だ。
ここから類推すると、学習で獲得すべき知的能力とは、ものごとの捉え方であると考えられる。既知・未知を問わず、様々な対象を、自分の力と自分の言葉で、観察・整理・類推・体系化・帰納・演繹・抽象化・評価する能力だ。
ところで、多くの学生たち(数学を苦手にしている)が口をそろえ、数学は将来全く役に立たない!と言っている。
では、なぜ数学が高校や中学での必修科目になっているのか。
算数における四則演算は、買い物や貯蓄やローンに必要なのは当然だが、高校や大学で専門的に学ぶ数学は、そんなものからは遥か遠くに離れて、完全に抽象論理の世界での知的活動であり、数学とは浮世離れした学問の代名詞のように言われることもある。
しかしながら、前述した、「ものを捉える能力」のうち、観察と評価を除く全ての能力を鍛える場として、数学以上に最適な分野はない。 そんなに数学が素晴らしいなら、高校や大学をぜんぶ数学科にしてしまえばいいじゃないか、ということになるが、人には得手・不得手があるし、現実的な学問を推進・維持する必要も厳然として存在するので、そういうわけにいかないのは当然のことなのだ。
それに、数学だけでは、現実のものごとを「観察」したり、いろんな現実的な尺度で「評価」することができない。
しかし、少なくとも、若者の教育機能としての数学は、やはり再評価されるべきではないだろうか。 数学は純粋論理であり抽象的思考であるから、それに対して「それが何なんだ」と思うのは人間の一般的な感情だろう。その気持ちが数学の学習において障害になる。しかし、強調したいのは、学んだ内容が、直接そのまま、現場の応用に供するというものではないということ。あくまで、役立つのは「ものごとの捉え方」。
そう言ってしまうと、よく言われる「数学は論理的思考の訓練」というやつか、と思われてしまうが、数学はそれだけではない。数学が提供する個々の理論が、ものごとの解釈・説明に関して、非常に具体的かつ強力に働くこともある。
物理学とその周辺分野である気象学や工学ではそういう例が無数にある。しかも面白いことに、全く別の現象と思われることに対してほとんど全くおなじ数学的な理論があてはまるということが多い。
数学の意味は、まだある。数学と物理学には、人間の通常の日常感覚ではまったく理解することも想像することもできない対象が現れる。分子や原子・電子といったミクロの世界の支配則である量子力学や、宇宙の構造を支配する相対性理論は高度に抽象化された数学で裏付けられている。
そもそもこのような世界は我々の非日常的なことであり、日常感覚が通用しないのは当たり前で、実際、「宇宙は曲がった空間」だの、「状態とは無限次元の複素ベクトル空間」だのといった非日常的な数学理論でこれらは説明され、数学なしでは一歩たりとも前に進めないのです。
つまり、人間の日常感覚というチープな経験では絶対に獲得することができないような想像力を、数学によって獲得することができるのです。
このことは、若者に2つの非常に大事な教訓をたたき込むことになる。「我々が日常感覚で想像できることは世の中のごく一部である」という謙虚な姿勢と、「日常感覚で想像できないことでも、論理をたどれば理解できるし、それによって自分の想像力は日常を離れて飛躍できる」という自信だ。
前にも書いたように、数学は「観察」とか「評価」までは教えてくれない。これらも論理を基盤に持つが、論理以外の部分も重要である。
例えば植物を育てる場合、「観察」はとても大切な行為となる。その作物が良い状態にあるのか、光・水・肥料はそれぞれ足りているか、次にいつごろ施肥や水やりをすれば良いか、そういうことを判断するのに、観察力はとても重要となる。ものを設計・製造するときも、観察力は重要になってくる。
観察には、集中力や持続力、記憶力、判断力が必要だ。観察を含めて、丁寧に誠実に、手を動かして勤勉に仕事をすることを学ぶには、現実のものを対象にした訓練が必要となる。それには実験や観測といった要素の多い学問が非常に有効だ。「評価」については、人間社会の論理や価値観を知らねばできない。経済的な価値のみならず、信用や安全、連帯感、さらには芸術性や冒険心ということまで評価するには、人間に対する基本的な理解が必要となってくる。
これらを学ぶには、歴史や地理、文学、スポーツなどが必要だ。しかし、強調したいのは、こういうことに対しても、数学のもつ論理性は重要だし不可欠であるということ。複雑な状況が入り組んでいるときに、背反する条件や価値観を論理的に整理することは、観察や評価そのものではないが、観察や評価にとって不可欠な論理操作となる。
我々が何かをなすとき、その仕事で直接要求される知識や技能は限定的であっても、それを高い品質で行うには、全人的な能力、すなわち人としてのトータルの能力が必要なのだ。
部屋の掃除を例にとっても、掃除機をかける・ほうきをはくといった行為は、手足を使えるなら誰でもできるが、塵やほこりの性質を考えて、たまりやすい場所を認識し、手順を考えて、効率良く行うには、観察力や判断力が必要となってくる。部屋の中のものの価値や置き場所の意味を理解しなければ、大切なものを壊したり、なくしたりしてしまうかもしれない。
掃除機が調子悪くなったら、その原因を推理しなければならないし、そもそも大切な実験機器が動いているときに、掃除機をかけてノイズを発生させたり電源のブレーカーを飛ばす恐れはないか、といったことにまで気を配るには物理(電気)の素養も必要だ。
遊んでいる人間が果たしてそのことに気づいているかが問題で、大部分の高校生及び中学生は目に見える内容のみ信じ、目に見えないことや自分にプラスにならないことに対してさほど関心がないので、たとえこちら側が強めに伝えたとしても本人にはその声はなかなか届かないことだろう。
結論としては本人の自覚次第。
いかに今自分が行っている事、またはこれから自分が行うべきことに重要性を見出せるかどうかだと思う。
その重要性に気付かないままだと
何も進歩はありえない。